フィールド学の意義

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生きることはシナリオのない即興劇を演じることである。

生きることというどこにでもある平凡なできごとから、人間のあらゆる活動が生まれてくる。社会的活動あり、経済的活動あり、政治的活動あり、科学あり、宗教あり、芸術あり、さらに健康と病があり、人間と自然との共生があり、またさらに夢あり、戦いあり、後悔あり、歴史の発展と消滅とがあり、人間に関係するほとんどあらゆる出来事がすべてこの生きることという平凡で偉大なはたらきから生まれてくるのである。しかしこの生きることという最も重要なことがその普遍性故に出来事の背景として取り扱われ、出来事を生み出すはたらきとして取り扱われてこなかったという事実がある。特に科学的思考が人間にとって重要な生きるというはたらきを多くの専門に細分化して、逆に各専門の枠に当てはめて人間の普遍的なはたらきを眺めるようになったために、人間に対する思考の幅を狭く、そして知を浅くして、人間の自己認識の目を曇らせてきたのではないだろうか。

たとえば経済の拡大があって、よりよい生き方が可能になるのか。それとも、よりよく生きることが、よりよい経済を生み出すのか。要するに、人間は「持つために在る」のか、それとも「在るために持つ」のかが今こそ厳しく問われなければならない。人間と自然との共生――いわゆるsustainable stateの実現――と多様な価値観を持つ人々がこの狭い地球で共存在する時代を迎えて、いまこそ経済的な拡大からよりよい生き方の方へ、専門から普遍の方へと、人間の生き方を根本的に変えることが必要になってきているのではないだろうか。実際、始めに思考の枠を設定して、次にこの枠に合うように生きることを規定すると、生きる形に捩れ――論理的なパラドックス――が生まれてしまう。よりよく生きるという普遍的なはたらきから出発して、人間の様々な活動を引き出すように思考していけばこの捩れが生じないのである。この意味からも、文明は大きなパラダイム転換を必要としている。それは具体的には、よりよく生きることという普遍的価値からの出発を意味しているのである。

人間にとって最も普遍的でそれだからこそ最も重要な活動であるこの生きることそのものを取り扱う理論は、従来の科学にはない。この理論は論理の形式からは、役者がシナリオのない即興劇を演じる理論と同一になる。そこで生きることをシナリオのない即興劇を演じることとして、この即興劇が持続的に進行する条件を考察することから、新しい共存在社会の形が見えてくるのである。このためには、従来の専門の枠に縛られない形で、生きていることのフィールド学を成立させる必要があるのである。

投稿者: @sushi | 投稿日時: 2003年12月16日 00:38 | 他サイトからのリンク
この投稿へのコメント

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